チャ・インピョ、苦難の幼少期を告白「13歳で両親が離婚、女性のせいだと言われた時代」
俳優チャ・インピョが、世間の「金持ち」というイメージとは異なる、両親の離婚やアメリカへの移民、家族を支えた苦労を告白。人生の「荒野」を乗り越えてきた彼の成長物語が明かされます。
俳優チャ・インピョが、一般的に知られている「金持ち(金のスプーン)」というイメージとは異なり、幼少期に両親の離婚を経験し、一人で3人の子供を育てなければならなかった母親と共にアメリカへの移民を選択したという過去を明かした。華やかな俳優の人生の裏には、見知らぬ土地で家族の生計を担わなければならなかった青年時代の苦労があった。

チャ・インピョは11日に放送されたMBCのバラエティ番組『Songs That Survived Today - Playlist 109』に出演し、自身の人生で最も辛かった瞬間を振り返った。
彼はまず、自分を取り巻く「金持ち芸能人」という世間の認識を正した。
「私が金持ち芸能人のリストに常に載っている。しかし、そうではない」と語るチャ・インピョは、「家ごとに事情があるように、我が家にも事情がある」と幼少期の話を切り出した。
チャ・インピョによると、両親は彼が13歳の時に離婚した。その後、3兄弟は母親と共に暮らした。父親は離婚後も子供たちを支援するために努力したが、当時、一人で3人の子供を育てる女性の生活は、今と比較できないほど過酷なものだった。
特にチャ・インピョは、当時の社会に蔓延していた性差別的な視点を指摘した。
彼は「社会の雰囲気は、すべてが女性のせいだと言っていた。一人になったことも女性のせいだと言われた」と語り、離婚した女性が3人の子供を連れて生きる姿を見つめていた当時の冷酷な社会情勢を回想した。
結局、母親はある日、家族に新しい選択肢を提示した。
「敷居を越えてみよう。海を越えてアメリカに行って暮らしてみよう。」
チャ・インピョは、母親のこの言葉の後、20歳の時に母親と2人の弟と共にアメリカのニュージャージーへ移民したことを明かした。そして見知らぬ土地に到着した瞬間、20歳の青年だった彼は、事実上家族の生計を担う「一家の主」となった。
「何の能力もなく、英語も分からず、道も分からないのに、どうにかして早く成功して母親と弟の面倒を見なければならない状況だった」と、当時の心境を「焦りと不安があった」と表現した。
現実は想像以上に過酷だった。
塗装の仕事をしに行ったが、英語と技術が不足していたため塗装工ではなく助手になり、ウェイターの仕事に行ってもコミュニケーションが困難でウェイターの助手へと追いやられた。
チャ・インピョは当時を思い出し、「やろうとしていたことから、ずっと押し出された。私は助手としての人生なのか?」と語った。
彼にとってアメリカでの20代前半は、文字通り「荒野」だった。しかし、チャ・インピョはその経験が単なる貧しさや苦労の記憶だけではないと振り返った。
彼は「自分がいつ辛かったかを考えてみると、新しい環境に適応する時が辛かった」と語った。
韓国からアメリカへ家族と共に移住した時だけでなく、俳優から小説家へと領域を広げた時、そして最近初めて演劇の舞台に立った時も、同様の恐怖を感じたという。
慣れ親しんだ世界を離れ、一度も行ったことのない場所へと足を踏み入れるたびに、恐怖が訪れたのだ。結局、チャ・インピョにとって人生の「荒野」とは、特定の出来事というよりは、自分が慣れ親しんでいた世界の外へと押し出される瞬間に近かったのだ。
この日、チャ・インピョが自身の「支えの歌」として選んだ曲は、ユン・ボッキの「皆さん」だった。
特にこの曲は、単なる音楽的な好みを超え、チャ・インピョにとって個人的な思い出が詰まった歌でもあった。過去に友人に送った手紙でも「皆さん」に言及していた彼は、ユン・ボッキと特別な縁があることを明かした。
チャ・インピョは「妻と私が結婚する時、祝歌を歌ってくださった」と、ユン・ボッキが自身の結婚式で祝歌を歌ったエピソードを公開した。
幼い頃に両親の離婚を経験し、偏見の中で家族と共にアメリカへ渡り、見知らぬ労働現場を転々とした青年。その後、俳優になり、作家になり、最近では演劇の舞台にまで挑戦したチャ・インピョの人生は、結局、慣れ親しんだものから脱却するたびに自分を再構築してきた過程であった。
だからこそ、彼が「支えの歌」としてユン・ボッキの「皆さん」を選んだ選択は、より意味深い。人生は常に自分が望む方向に流れるわけではないが、見知らぬ道へと押し出された瞬間にも、再び歩んでいく力を自ら見つけなければならないということ。この日、チャ・インピョが語った物語は、「金持ち俳優」という単純なイメージでは説明できない、一人の人間の成長史を示していた。