女優オ・ハヨンの曾祖父、安相鎬(アン・サンホ)の親日疑惑と地域への寄付を巡る論争
女優オ・ハヨンの曾祖父、安相鎬を巡る親日疑惑が再燃。日本統治時代の莫大な土地所有と、解放後の子孫による地域への大規模な寄付という二つの側面から、歴史的評価を巡る議論が巻き起こっています。
女優オ・ハヨンの曾祖父、安相鎬(アン・サンホ)を巡る親日論争が拡大する中、彼が日本統治時代に安養(アンヤン)一帯で莫大な土地を保有していた「豪商」であったという主張が再び注目を集めている。特に解放後、子孫たちが地域に大規模な土地を寄付した記録まで明らかになり、莫大な財産の形成とその社会的還元という二つの側面をどのように捉えるべきかを巡って論争が続いている。

論争の核心は、安相鎬の親日行為だけでなく、当時彼がどのような社会・経済的位置にいたかにある。
朝鮮総督府の機関紙であった毎日新聞は、1928年1月5日に安相鎬の死去を伝え、彼をコジョン皇帝の御医を務めた医師として紹介した。当該記事には、安相鎬が病院を開業した後に自力で成功して相当な財産を蓄積し、当時、始興郡安養里で相当な土地を所有する「豪商」と呼ばれていたという内容が含まれていると伝えられている。
特に、彼の土地を耕作していた小作人たちが、その功績を称える頌徳碑(しょうとくひ)まで建てたという記録が登場する。これは、安相鎬が単に医師として活動した人物を超え、当時の安養地域で相当な経済力を持つ地主であったことを示している。
家族史も当時の時代像をそのまま映し出している。
毎日新聞は、安相鎬が日本人女性と結婚して4男3女を授かったと紹介し、彼を朝鮮人として日本人女性と家庭を築いた「先駆者」のように描写した。今日の視点で見れば、単なる家族史ではなく、当時の日本による同化政策と「内鮮一体」の言説の中で読み解くべき記録であるという点で、論争の余地が大きい。
安相鎬の経済的基盤は後代にも引き継がれたことが知られている。
彼の息子である安定鎬(アン・ジョンホ)も医学教育を受けた後に安養で歯科医院を経営し、その後、経済界に進出した。特に安定鎬の一家は解放後、安養地域に相当な土地を保有する地主であり、1947年に安養3洞一帯の土地を寄付して学校設立に寄与したという記録も挙げられている。
その後、安養地域の保育施設のために土地を提供し、6・25戦争後には安養川の堤防築造に私財を投入したという記録も伝わっている。
ここで論争は複雑になる。
一方には、日本統治時代の安養地域で莫大な土地を保有していた安相鎬一家の経済的基盤があり、もう一方には、後継者たちが解放後に相当な財産を地域社会に還元したという記録が存在するためである。
したがって、「親日行為があったのだから、後継者のすべての財産は親日の結果である」と断定することも、別途の歴史的検証が必要な問題だ。財産の取得過程と規模、相続関係、解放後の変動などを、それぞれ資料で確認しなければならないからだ。
今回の論争でさらに関心を集めているのは、オ・ハヨン側の一族が過去の放送で、家系の経済力や医療家系である事実に言及していた状況だ。冷蔵庫が複数台あるという話から、家系の医療の伝統を強調した発言などがオンラインで再注目されると、単なる家族の自慢であった発言が、曾祖父の歴史的行為と結びつき、新たな論争を生んでいる。
特にオンラインでは、安相鎬の後継者と推定される人物が、過去に自身の家系について「代々裕福だった」という趣旨の書き込みを残したという主張まで広がり、財産形成過程への疑問も提起されている。ただし、このようなオンライン投稿の作成者と内容が、実際に安相鎬の後継者の発言であるかどうかは、別途の確認が必要である。
もう一つの争点は、安養市が安相鎬を紹介する過程で、彼を「独立運動家」として分類したという主張だ。この部分についても、行政機関の公式資料と歴史的記録を照らし合わせ、正確な事実関係を確認する必要がある。
特に、安相鎬に関連して言及される頌徳碑が、京畿道の親日文化残滓に関する資料で親日残滓として分類されたという主張まで出ており、地域社会が過去の人物の功績をどのように記憶し評価すべきかも、論争の中心に浮上している。
結局、今回の事案の核心は「富者であったか」ではなく、その富がどのような歴史的条件の中で形成され、当時の社会でどのような位置を占めていたかを突き止めることにある。
安相鎬に親日行為があったのであれば、それは歴史的資料を通じて厳密に評価されなければならない。同時に、後継者の財産と地域社会への寄付も、別の事実関係として検証すべきである。親日という理由だけで後継者に責任を自動的に継承させたり、逆に後継者の寄付を理由に先代の行為を希釈したりすることは、いずれも歴史的判断を単純化させる危険がある。
何よりも今回の論争は、ある芸能人の家族史を超え、植民地時代に蓄積された富と社会的名声が、解放後にどのように引き継がれ、記憶されたかという、韓国近現代史の古い問題を再び引き出したという点で注目する必要がある。